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昭和47年7月三次豪雨災害


九州北部豪雨災害のニュースが連日テレビで報道されています。

被災されたみなさまに心よりお見舞い申し上げます。

故郷広島県三次市でも今年大雨が降り、現在も雷警報が継続中です。

どうか、あの時のような被害が再び起こりませんように。

昭和47年7月、三次市は大水害に見舞われました。

その時の記録が、三次河川国道事務所のHPに詳しく掲載されているのをみつけました。

私の家族も、浸水被害に遭いました。

当時私は1歳。何一つ記憶に残っていません。

両親から聞いた話を通してしか知りませんでした。

子供の頃の2歳差というのは大きいもので、3歳だった姉は「避難した夜を憶えている」、と教えてくれました。

その頃、私たち家族は三次駅のすぐそばに一軒家を借りて住んでいました。

7月9日から強雨が続き、市内中で「もしかしたら水に浸かるかもしれん」という噂が流れていたため、両親はいつでも逃げられるように準備していたそうです。

そして、7月11日夜半、家族全員寝静まっていたところ、外の異変に感づいた父が家族をおこし、父が姉を、母が私をおぶって車へ移動、そこから、大樽池のある高台へ猛スピードで車を飛ばしたそうです。

まるで水におったてられるようだった、と父が語っていました。

高台で一夜を過ごし、翌12日、ちょうど45年前の今日から1か月間、市内に住んでいる母方の伯母宅へ身を寄せました。

お世話になっている間、父の勤務先の同僚が総出で片づけを手伝ってくれたそうです。市の巡回消毒車に、僅かながら使えるものは消毒してもらい、そのまま使ったようです。

その中に、母の婚礼家具がありました。 子ども心に、「うちのタンスは変な色だなあ」と思っていました。

形容できないような暗い色でした。

小さかった私は無情にも母に「なんでこんな変ないろんなん?」とたずねました。

母は、一瞬哀しそうな顔して、優しく言いました。

「水につかってしもうたけえねぇ」

また、姉から聞いた話で、母はよく、「水はここまで来たんよ。」と変色した家の壁を指しながら言っていたそうです。

目の覚めるタイミングが遅れていたら私たちも水に浸かっていたかもしれないそうです。

家財道具の殆どが処分となりましたが、「これだけは」と皆さんが一生懸命探してくださったのが、アルバムだったそうです。

1冊だけ、まだ見れる状態のものをみつけてくれました。姉の写真と一緒に貼られたアルバムです。

私は子供の頃、その1冊のアルバムを何度も何度も穴が開くほど見ていました。

1歳までのほんのわずかな記録が、そこにはありました。

現在アルバムは姉が保管してくれています。その中から1枚茅ケ崎に持ってきました。


両親は小さい私たちを抱えて、殆どのものを失い、つらかっただろうと思います。

しかし、水害の話をしてくれたときは、そういう負の感情はあまりみせず、

お世話になった人々の話をよく聞かせてくれました。

足を向けて寝れない、と言っていました。

1か月間、お世話になった伯母や義伯父は嫌な顔一つせず、私たちを受け入れてくれた、と、両親はよく話ていました。姉は伯母宅への居候について、楽しかった記憶しかない、と話していました。伯母は両親が他界したあとも、両親の代わりになって私たちに愛情を向けてくれています。8月のコンサート前後もお世話になる予定です。

人の優しさ、温かさは、コンサート準備を通しても感じていて、成功に向け現在支援者の方々が全力で応援して下さっています。

一人ではできないことでも、沢山の人の善意で動かせることを、これまで一杯経験してきました。

困っているときは善意を快く受け入れ信頼する、そして、自分が力になれるときは馬力を発揮する。

被災に遭われた方々は、今大変な想いをされていると思いますが、なんとか、踏ん張っていただきたいというエールを込めて、私の体験を書きました。

一刻もはやく、事態が収束することを心から願っています。

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